エンジン・サマー

そして私はいつか
どこかから来て
不意にこの芝生の上に立っていた
なすべきことはすべて
私の細胞が記憶していた
だから私は人間の形をし
幸せについて語りさえしたのだ


谷川俊太郎「芝生」


復刊されたため、五年ぶりくらいにエンジン・サマーを再読。


エンジン・サマー (扶桑社ミステリー)

エンジン・サマー (扶桑社ミステリー)


機械文明が失われた世界を舞台にした、少年の旅の物語。
それに加えて、寓意についての寓話、物語ることについての物語でもあります。


「エンジン・サマー(機械の夏)」というタイトルひとつとっても意味深です。


作中でこの言葉は、「インディアン・サマー(小春日和)」が訛ったものとして使われています。
インディアン・サマー」という言葉自体は、晩秋に暖かい日和が続く日のことを、インディアン(ネイティブ・アメリカン)が冬への備えとして喜んだ事が語源となっているそうで、それはそのまま、機械文明の冬への支度をしようとする人間たちの姿へと重なります。


また、物語の語り手である少年〈灯心草〉たちが、「系(コード)」と呼ばれるトーテムに似た部族に別れて生活し、「パン」と呼ばれるパイプのようなものを吹かし、ドラッグでトリップする様は、ネイティブ・アメリカンを意識して描かれていますが、「インディアン」という言葉は、作中世界で死語となっており、タイトルからも失われています。
(「インド人」という元々の意味を考えると、それは「二重の意味で、永遠に」失われているといってよいかもしれません)


代わりに使われている「エンジン」という言葉が象徴する機械文明は、「嵐」と呼ばれる大破壊を経て失われつつあり、「機械の夏」は終わりを迎えています。


言葉の上で失われたものが存在し、言葉の上で存在しているものは失われている世界。
そういった事を一言で表している、名タイトルだと思います。